あれから20年の歳月が経って
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体験の内容:
私のような経験をした人がいることをずっと知らずにいたため、困惑し孤独に感じていました。私の臨死体験の話を聞いた者は、誰も否定的だったため、傷ついた私はその後すぐにそのことを誰にも話さなくなりました。しかし、あの時の経験から、多くのことを学んだことを理解し始めました。身体的苦痛がなくなり、信じがたいほどの心の安らぎが訪れると、今まで抱いていた死への恐怖はなくなり、それ以来死を恐れてはいません。死後の世界に何が待っているのかを理解し、もう一度あの経験をしたいと願っています。ですが、今となれば、何故この世に戻ってきたのかを確信しています。生還する前には自分の現世での目的が何なのかはっきりと分かっていましたが、今ではもう思い出せません。でも、その記憶は生還前に失われなければならなかったことも理解しています。死後の世界を垣間見たことで得られた一番の贈り物の一つは、友人や家族が亡くなる時に感じる心の平穏です。悲しみはもちろんありますが、死後の世界で彼らは自由で喜びに満ちていることを私は知っているのです。
自分が死亡した時のことについてはあまり語ることはありませんが、何度か臨死体験中に学んだことについて話をしようと試みたことがあります。その時に得た知識には思い出せないものもありますが、明瞭に思い出せるものもあります。他人にその話をする時に一番大変なのは、適当な言葉が見つからないことです。今この手記を書きながらも、実際に起きたこと、私のそのときの感情、得た知識を説明することの難しさを痛感しています。
生還後、最も大きな変化があったのは、おそらく私の宗教観でしょう。クリスチャンの家庭で育ち、10歳の時にイエス様への忠誠を誓いました。両親は東アフリカで宣教師をしていましたが、私は神様を身近に感じることができず、また教えられた道徳心に反抗的な気持ちになることもありました。それでも、自分はクリスチャンだと思っていました。聖書は神の言葉であり、イエス・キリストに忠誠を誓えば、永遠の地獄から救われると、当時は信じていました。ですが、宗教、聖書に関する様々な疑問や救いについての概念に相反することに悩まされることもありました。臨死体験をしている最中に、それまでの信念を覆すだけでなく、多くの点でそれらが意味の無いものであることが私には分かりました。それ以来、幼少期からの信念に囚われるのはやめ、神ではなくただの人間の考えた信念を取り払うことにしました。ですが、臨死体験で学んだことを上手く自分の中で理解するのは容易なことではありませんでした。
我々人類の考えが如何に狭いものかが分かってから、その他の宗教についてもより寛容になれました。神様は我々が求める形と宗教観念に沿って、お姿を現されることが分かりました。イエスの形として現れた神は、側近の献身的信者が理解できるようにご尽力されました。彼の死の前夜、その信者達が理解していないのを感じたイエスは、死期がせまっていることもあり、失望したのです。イエスも自らの人間らしさにより、限界があったのです。精霊を真に理解することも我々の人間には限界があるのです。
神に触発されて書かれたとはいえ、聖書は人間によって書かれ、読まれているものであり、言葉を使う制約を受けています。つまり、深遠でありながらも、そこには限りがあります。我々の理解を超えたものを理解するのに大変役に立つものの、無条件に降り注ぐ偉大なる神の愛を理解することは我々には到底できません。我々が日々の生活のなかで感じる喜び、平穏、幸福、満足、愛情は、死後の世界の一片にすぎません。救いの概念とは、既に我々の手の中にある“救い”を頭の中で理解しようとする試みです。議論はあるでしょうが、我々の考える救いは、神の真意を反映してはいません。今では、真実を追い求めることはやめました、なぜなら、その時が来れば、誰もが真実とは何かを理解できるようになるからです。
教会(宗教)とは、無限のものに制限をつけ、制御不能なものを管理しようとすることで、理解不能なものを理解しようとする我々人類の試みなのです。精神性を理解出来ないことからくる副産物として、宗教はあるのです。ですが、宗教にはその存在意義があり、我々を神に近づけてもくれます。宗教は我々にとって大事なもので、理解の手助けにもなりますが、同時に、我々を苦しめ、孤独を感じさせ、悩ませることもあります。
私は宗教を信じることについて議論しているのでもなければ、自分の臨死体験を肯定しようとしているのでもありません。ただ、教会の教義と自分の考えを交わらせないようにしているだけなのです。自分の考える方法で、神を身近に感じたいだけなのです。
臨死体験後、長い年月をかけて私の人生の歩み方は変わり、あの時の教訓を思い出し、理解し、人生に取り入れるようにしてきました。最初、一人で自分の経験を抱え込んだため、せっかくの素晴らしい経験、様々な知識や理解も、上手く伝えることができず(今でも困難を感じており)、すべてを押し殺してきました。そんな時、友人でもあった社会学教授がキューブラー·ロスの本を紹介してくれたのです。彼女の本は、“驚きの連続”だったのと同時に、自分のような者が他にもいることで安堵の念を覚えました。自分やその他の人達の経験があまりに類似しているので、しばらくは信じられませんでした。もっと知りたいと思った私は、臨死体験の勉強を始めるのに適している場所だと思い、彼女の“死ぬ瞬間”のクラスを受講しました。ですが、自身の臨死体験についての論文を書き上げた時、私のインストラクターは私の経験は薬の過剰摂取によるものだと言いました。
私の話を信じ、私が正直で信頼に足りる人間だと分かってくれるような友人に出会えたのは、何年も経ってからでした。そんな友人は私にもっと臨死体験について語り、多くの関連書籍を読み、経験から学んだことを人生に活かすよう促してくれました。
人生で困難に出会い、打ちのめされた時、神のもとへ連れて行ってくれるようにお願いしたこともあります。もう一度あの時の素晴らしい経験ができるように、死を望んだのです。死後の世界が如何に素晴らしいかを知ると、生きたいと望む意志が弱まるのに、どうしてあのような体験をする機会を与えられたのでしょう。きっと、無条件の愛、満足とは何かを理解し、愛情と平穏の本当の意味を思い出すことで、今この瞬間を精一杯生き、更に回りの人達を助ける機会を私は与えてもらったのだと、今では考えています。死が訪れるのを待たずとも、今ある人生を豊かに出来る記憶が私には備わっています。
死後の世界を味わってから20年の歳月が経ち、たくさんの変化がありました。その変化のどれが臨死体験によるものなのか、それとも成熟の過程によるものなのかは分かりません。臨死体験の記憶を押し殺すことに人生の半分を費やした私ですが、受けた影響を否むことはできません。
以前の私
1. 人生とは何かが分からず、信仰の中に答えを求めていた。
2. 死ぬことへの恐怖を抱いていた。
3. 偏頭痛にいつも悩まされ、薬に頼っていた。
4. 自分に自信を持てずにいた。
5. 家族とも、一時期は友人ともより良い関係を築けずにいた。
6. 職業が大きく“自分とは何か”を形成していた。
7. 生きがいを感じるために、 人生の目標や方向性を必要としていた。
8. 生きることが苦しかった。
現在の私
1. よりスピリチュアルで、生きるとは何かが以前より分かっている。
2. 死ねば誰でも自由、安堵、喜びを得られることが分かり、死への恐怖が無くなった。
3. 時折偏頭痛に悩まされるが、タイレノール(頭痛薬)を飲むだけで済む。
4. 独創的で、自立しており、自分が成し遂げてきたことに誇りを持っている。
5. 大勢の友人や家族との良好な関係に大変満足している。
6. 神、家族、友人との関係が大きく“自分とは何か”を形成している。
7. 生きていることに意義を見い出せる。今が大事であり、これから何を成し遂げるべきかを、事前に知らなくてもいい。
8. 人生にやりたいことがたくさんある。プレッシャーを感じることもあるが、上手に対処できる。
“もしもう一度機会があったら、あの世に行ってみたいか?”と数年前に友人に聞かれた時、私は躊躇することなく“もちろん”と答えました。“今の生活すべてを捨てても行くの?”と尋ねる彼女に、“ええ”と答えました。子供達や夫、両親、友人と離れたいわけではないけれど、今なら、あの時与えられた経験が如何にすばらしいものだったかよく理解しているので、次に死ぬ時が来たら、そこには圧倒的な心の安らぎが私を待っていてくれることを確信しています。